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マッサンとリタの子供について(ネタバレ注意です)

公開日: : 朝ドラ

つい朝ドラマ「マッサン」が始まります。政春(まさはる)とエリーのモデルはニッカを作り上げた竹鶴政孝とリタ夫婦ですが

 

二人には子供がいませんでした。しかし、二人はおしどり夫婦で有名でした。ドラマを見る前にモデルになったこの二人がどんな

 

人だったのか?どんな夫婦だったのかを見ていこうと思います。

 

二人に子供はいませんでしたが養子がいました。その人はどんな人だったのでしょう?

 

 

Nikka Susukino Sapporo01s” by 663highland663highland. Licensed under CC 表示 2.5 via ウィキメディア・コモンズ.

 

☆実在のマッサンは?エリーはどんな人生を送ったの?

(実在の人をモデルにしているので人生を語ることが物語のあらすじを語ることになると思います。知りたくない方はこれ以降は読まないようにしてください。)

 

大阪の摂津酒造に就職していた竹鶴政孝は

 

本場スコットランドのウイスキーづくりを学ぶ為にグラスゴー大学に留学します。

 

上でも少し書きましたが、エリーのモデルは竹鶴リタです。本名ジェシー・ロバータ・カウンといいます。

 

スコットランド・グラスゴー近郊で医師の家であるカウン家の長女として生まれます。

 

妹のエラ、ルーシー、そして弟のラムゼイがいました。この弟ラムゼイに竹鶴政孝が

 

柔道を教えることでリタと知り合いになりました。グラスゴー大学で学ぶも

 

実際に作って見なければウィスキーの作り方は学べません。

 

やがて、蒸留所でウィスキー作りを学ぶことが出来ました。

 

人が嫌がる仕事も率先してやったようです。はじめは肝心の蒸留器を触らせてもらえませんでしたが

 

熱心な政孝さんの姿に現地の職人は動かされ、ウィスキーの作り方を学ぶことが出来ました。

 

 

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やがて、仲良くなった政孝とリタはカウン家の猛反対に遭いながらも二人は現地で結婚。

 

1920年の1月に結婚して、この年の11月にリタは政孝と初めて日本にやってきます。

 

しかし、日本でも反対されます。なんとか了承されますが、摂津酒造は第一次大戦後の不況で

 

ウィスキーが造れなくなります。

 

しかし、捨てる神あれば拾う神あり!です。壽屋(現サントリー)がウィスキーを造りたいと思ったときに

 

ウィスキー作りを学んできた政孝さんに白羽の矢が立ちます。

 

政孝は念願のウィスキーを造り、1929年にウィスキー「サントリー白札」が発売されました。

 

「醒めよ人! すでに舶来盲信の時代は去れり 酔わずや人 我に國産至高の美酒 サントリーウヰスキーはあり!」

 

とのコピーが書かれた広告が全国紙に掲載され評判になりますが、味の評判はあまりよくなかったようです。

 

1934年に竹鶴政孝は壽屋をやめてスコットランドの気候に近い北海道に移り、「大日本果汁株式会社」(現ニッカウヰスキー)

 

をはじめます。ウィスキーは製造から出荷まで数年かかるために、リンゴジュース、リンゴワイン、リンゴゼリーをつくり

 

売っていました。

 

ウィスキーだけでなくこちらも品質を追求したために果汁100パーセントしか出荷せずに高かっためあまり売れなかったようです。

 

 

夫婦の苦難は続きます。太平洋戦争勃発によってリタは「敵国人」扱いされ、スパイ容疑をかけられてしまいます。

 

昔テレビでこの二人の特集をやっていたのを見たことがあります。

 

この当時のリタを描いた絵には金髪ではなく黒髪のリサが描かれていました。

 

髪を黒く塗って日本人より日本人らしく振舞おうとしたリタの苦悩が見てとれました。

 

二人には子供がいなかったために、政孝の姉の子供竹鶴威(たけし)を養子に迎えています。

 

彼はニッカの2代目マスターブレンダーとなります。

 

ブレンダーとは?

大きく3つの役割があるそうです。

 

品質の維持・一定化。(同じメーカーなのに品質ばらばら、味バラバラではいけませんよね)

すでに寝かされている原酒をつかった新しいウィスキーの創造・開発。

将来を見越したウィスキー作りのために原酒作りと原酒在庫の管理です。

 

ウィスキーのイメージを組み立てバランスよくブレンドする創造力、研ぎ澄まされた味覚、嗅覚が必要です。

ブレンダーの長がチーフブレンダーです。最高責任者がマスターーブレンダーです。

 

サントリーHP  http://www.suntory.co.jp/customer/faq/001757.html

 

 

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当初は日本の言葉や文化に戸惑っていたリタも、ががて懸命に習得した流暢な関西弁を操り

 

日本文化に溶け込んでいきます。

 

そんなリタを周囲の人は「日本人以上に日本人らしい」と評しました。

 

その後、リタは病気がちとなり神奈川・逗子で過ごす日々を送りますが

 

亡くなる前年には本人の希望で再び北海道・余市に戻っています。

 

1961年にリタは亡くなりますが

 

彼らが手塩にかけて造った、余市蒸溜所は現在も稼働し続けています。

 

その傍らには、かつて竹鶴とリタが過ごした家(旧竹鶴邸)が移築されています。

 

夫婦手を取り合い、激動の世の中を生きてウィスキーを

 

つくる夢を追い求め実現し、子供はいなくてもすばらしい2代目のマスターブレンダーを

 

残した二人の話です。これからドラマが楽しみですね。

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